「一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたかのように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナッツの殻をまきちらした。そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な夏であった。」(村上春樹『風の歌を聴け』)
僕はビールが大好物だ。だから僕は休みの日、まるで何かに取り憑かれたかのようにロング缶のビールを三本は買いに行き、昼過ぎには飲み始めている。そうでもしなければ毎日がやってられないのだ。そしてこれでもまだ控えている方だ。健康診断で尿酸値が精密検査レベルにまで達していなかったら、僕は生活費の大半をビールに捧げ、毎日ロング缶の空き缶を積み上げていることだろう。もっとも、尿酸値が高いのはビールのせいだけでなく、ストレスと薬のせいだと信じているし、そもそも生きる意味を失って退屈な日々を送っている僕からしてみれば、ビールのせいで病気になろうが、それによって死のうが、どうでもいいことだ。
ところで、僕が休日にビールを飲むときに必ずやるルーティンがある。それは、ベートーヴェン、ピアノ協奏曲第3番(レナード・バーンスタイン指揮、グレン・グールド=ピアノ)のレコードを聴きながら飲むことだ。逆に言えば、ピアノ協奏曲第3番を聴くとビールを飲みたくなるのだ。

僕はもともとビールはほとんどのまず、ウイスキーが好きだった。むしろビールは苦くて不味くて嫌いだった。そんな僕がビールを好きになった理由は単純だ。僕の愛読書、村上春樹の『風の歌を聴け』で、主人公とその友人「鼠」が、狂ったようにビールを飲み続けるからだ。僕がこの小説を愛読するようになって以来、僕はこの本を読むたびに、嫌いなはずのビールがなんだか無性に飲みたくなってきたのだ。そしていつの間にか好きでもないビールを飲みながらこの本を読み続け、挙句、僕は毎度の健康診断で目も当てられないくらいに尿酸値が高くなる程のビール好きになっていた。
おまけに、『風の歌を聴け』の中に、主人公が鼠に誕生日プレゼントを贈るシーンがある。
「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲第3番、グレン・グールド、レナード・バーンステイン。ム……聴いたことないね。あんたは?」
「ないよ。」
「とにかくありがとう。はっきり言って、とても嬉しいよ。」
これがきっかけで、僕はクラシック音楽に興味を持ち、クラシックを学び、クラシックを覚えた。そしてそのきっかけになったベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、僕が最も好きな曲のトップのうちの一つだ。(ちなみにもう一つのトップはウィルヘルム・バックハウスのモノラル版のベートーベン、ピアノソナタ第23番〈熱情〉だ。)
クラシックというのは、同じ曲でも指揮者が変わればその曲はもはや同じ曲とは言えないくらいに大きく変わる。それがピアノソナタならピアニストによって大きく変わるし、ヴァイオリンソナタならヴァイオリニストによって十人十色だ。だからクラシックは奥が深くて面白い。
話が逸れてしまったから本題に戻ろう。僕はベートーベンのピアノ協奏曲第3番を、もちろんいろんな指揮者とピアニストの演奏で聴いた。手元には、グールドとバーンスタインの他に、バックハウスとイッセルシュテット、バックハウスとベームの組み合わせのレコードがある。でもやっぱり、一番はグールドとバーンスタインだ。そして多分それは、僕が『風の歌を聴け』を愛読しているからなのだと思う。
ちなみに『風の歌を聴け』で、主人公がこのレコードを買いに行くシーンもある。その時にレコードショップの女の子がこう言う。
「グレン・グールドとバックハウス、どっちがいいの?」
主人公はグールドを選んで、しかも指揮者はバーンスタインと明記されているが、選ばれなかったバックハウスの方は、指揮者がイッセルシュテットなのかベームの方なのかは分からない(僕の予想ではおろらくイッセルシュテットだ)。もしこの小説において主人公がバックハウスを選んでいたら、おそらく今頃はバックハウスのレコードを耳が擦り切れるくらい聴いていたのかもしれない。人間なんて、結局そんなものなのだ。
物事には何でも、良し悪しはつけられる。その理由もちゃんと存在する。それはそれでいいことだ。でもそれを気にしすぎると、自我を失い、流される。例え世間的にはメジャーだからミーハーだと思われようが、マイナーだから浮いていようが、そんなこと気にしたところで何の意味もない。自分は、自分が心から好きだと思えるものを愛すればいい、ただそれだけだ。
好きになるのに理由なんてない、というのはよく言われる。僕もそれに同意する。でも、好きであることに自分なりの理由を自分で持っていれば、もっと好きになれる。もっと愛することができる。そしてそうなれた時、人間は本当に幸せになれるのだと僕は思う。
だからこれからも僕は、尿酸値なんて知ったこっちゃない、休日にこのレコードを聴きながら『風の歌を聴け』を読みながら、ビールを飲み続ける。


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