「落ちつけ、テュデウスの倅よ、そこをどけ。神々と対等であるなどと自惚れるなよ。不死なる神と地上を歩む人間とでは、種族が違うのだぞ。」(ホメロス『イリアス』第五歌)
どうも、ちせいです。
突然だが、「神」と聞くと、どのような存在を思い浮かべるだろうか。たいていの方は、一神教の神を思い浮かべ、そのイメージは、神を信じ祈りを捧げる人間をすべからく救済してくれるありがたい存在、といったところだろうか。神と言えば宗教、宗教と言えばキリスト教、キリスト教と言えば聖書、そして聖書の中の神は謙虚で心が広い。僕の場合、「神」と聞いて思い浮かぶのはそんなイメージだった。そしておそらく、僕と同じようなイメージを持っている方が大半なのではないだろうか。そもそも日本には神を信仰する、という文化が比較的薄く、したがって「神」と聞いても主観的に語れる人よりも、小中高の主に歴史の授業で習ったような、もっぱらキリスト教とその信仰の精神みたいなものしか想像がつきにくいのではないかと僕は思っている。だから、日本人の多くは「神」について、なんだかよく分からないけれどとりあえず偉大な存在、くらいにしか感じられないし、そういう意味では「神」は日本人にとってほとんど馴染みがない存在なのかもしれない。
しかしこの世界には太古の昔から様々な地域でありとあらゆる神話が存在するし、そういう神話に登場する神(否、神々という方が正確だ)の考え方とか行動とか性格は実に多様だ。もちろん、僕は世界中の神話を網羅的に知っているわけでも詳しいわけでもないから、その点について多くを語ることはしないしできないししてはならない。ただ、僕が一つだけ言いたいのは、われわれ日本人の多くが持つ「神」に対するイメージとはかけ離れたような性格をした神々がいて、その神々たちによって繰り広げられる物語というのがなんとも幼稚だったり情けなかったり間抜けだったりするのがとにかく斬新で面白い、ということだ。今回は、そんな神々のアホっぷりを存分に楽しむことができる本を紹介しよう。
ホメロス、あるいはイリアスという言葉を聞いたことがあるだろうか。ホメロスというのは、紀元前八世紀ごろに活躍したということになっている古代ギリシアの詩人で、イリアスというのは、そのホメロスが作ったということになってる叙事詩だ。もちろん、紀元前八世紀なんて今から三千年くらい前のことで、そんな昔のことを確実に断言できるような十分な証拠がないために、蓋然的にホメロスという詩人が『イリアス』(ともう一つ『オデュッセイア』が有名)という叙事詩を書いた、というのが通説になっているだけで、『イリアス』は本当にホメロスによって作られたのか、そもそもホメロスという人間は本当に存在したのか、なんていう議論さえあるくらいなのだから、真実は手の届かない闇の中だ。まあそれはともかく、誰が作ったにしても『イリアス』という叙事詩が存在することそれ自体は事実なのだから、要はこれをぜひ読んでみて欲しいと言いたいだけなのだ。
さて、ではこの『ホメロス』という叙事詩なのだが、一体どういう内容なのだ、というのが一番お知りになりたいことだろうと思う。もちろん、それは僕なりにお伝えするのだが、その前に、一般的には『イリアス』がどういう内容であると言われているかというと、トロイア戦争におけるアキレウス(アキレス腱の語源になった半神半人、要するに神と人間の息子だ)を主人公とした英雄の物語、ということになっている。歴史の教科書とか真面目な書評とかではそういう風に紹介されているはずだ。
しかし、『イリアス』を二回読んだ僕は、どうにも英雄の物語、という印象が弱い。まあアキレウスという一人の英雄の物語、あるいはほかにも英雄と呼ぶべき人たち(例えばヘクトルとかオデュッセウスとかアガメムノンとか大アイアスとかその他諸々)は登場するし、実際手に汗握るような戦闘シーンもある。それでも僕は、どうも『イリアス』というのは私利私欲に神々たちの内輪揉めに巻き込まれて悲劇的な目にあわされる可哀そうな無力の人間たちを描いた作品、という印象が強すぎるのだ。
『イリアス』は第一歌から第二十四歌までのセクションに分かれており、僕の手元にある岩波文庫版(松平千秋訳)はそれぞれ十二歌ずつに分けて上下巻になっている。舞台はトロイア戦争という、トロイア(今のトルコの北西端)とギリシア連合軍の戦争(この戦争自体は実際に行われたとされている)で、第一歌は既に戦争がある程度進んで、アキレウス(ギリシア勢の一匹狼的存在)がアガメムノン(ギリシア連合軍総大将)に自分の女(もちろんこの女はトロイア側から奪ってきた戦利品)を横取りされてブチ切れているところから始まる。だからそもそもいきなり『イリアス』を読み始めても何がなんだかよく分からない。そもそも登場人物が意味不明。だから今回は、そもそもなぜトロイア戦争が勃発したのか、今回はその原因を簡単に解説した上で、次回『イリアス』の上巻、つまり第一歌から第十二歌までの、そしてその次の回で第十三歌から第二十四歌の紹介&感想を書く。
トロイア戦争の発端「パリスの審判」事件~神々の幼稚な意地の張り合いと弱小色男パリスの悲劇の始まり~
昔々あるところに、エリスという意地悪な女神がいました。エリスはその日頃の行いの悪さから、ぺレウス(アキレウスの父)とテティス(アキレウスの母で女神)の結婚披露宴に、全ての神々が招かれたにもかかわらずエリスだけ省かれました。これに怒ったエリスは、「最も美しい女神へ」という黄金の林檎を宴席に投げれました。するとこの林檎の所有権を主張した三人の女神が現れました。一人目は最高神ゼウスの妻ヘラ、二人目はゼウスの娘で戦いの女神アテナ、三人目は美の女神アプロディーテ。彼女たちは、林檎の所有権を巡って喧嘩しましたが、埒があきません。そこでゼウスは、トロイアの王子(次男)であるパリス(アレクサンドロス)君に、誰が林檎を所有するにふさわしいか決めてもらおうと言い始めました。世に言う、「パリスの審判」であります。

三人の女神は、パリスに自分を選んでもらおうと必死こいてアプローチしました。ヘラは、もし自分を選んでくれたら人類の王の座を与えると、アテナは、いかなる戦いにも勝利を与えると、そしてアプロディーテは、この世で最も美しい女性であるヘレネを与えると、それぞれパリスに言いました。ところでこのパリス君、なかなかのイケメンではありましたが、その分女性にだらしないプレイボーイでした。おまけにトロイア最強の兵士で英雄の兄ヘクトルがいながら、自信は一人の敵とも戦ったことが無いような、当時の男としては容姿以外になんの取柄もない弱小男でした。そしてそんなパリス君は案の上、アプロディーテを選びます。選んでもらったアプロディーテは、その見返りに、絶世の美女をパリス君に与えることを約束し、ヘレネの元へ連れていきます。
ちなみに、この不和の林檎に始まるパリスの審判の話については、アポロドロスによる『ギリシア神話』に記されています。

……争いの女神がヘーラー、アテーナー、アプロディーテーに美の賞として林檎を投じ、ゼウスは彼女らをアレクサンドロスによって審判されるべく、イーデー山中の彼の所に導くようにヘルメースに命じた。女神たちはアレクサンドロスに賜物を与える約束をし、ヘーラーは、もしあらゆる女に勝っているとされるときには、全人類の王となることを、アテーナーは戦いにおける勝利を、アプロディーテーはヘレネ―との結婚を、約した。彼はアプロディーテーを選び、ペレクロスが建造した船でスパルタへと出帆した。
アポロドロス『ギリシア神話』(高津春繁訳)岩波文庫
ところがあろうことか、アプロディーテがパリスに与えた絶世の美女ヘレネというのがなんと人妻、おまけにギリシア最強の男アガメムノンを兄に持つ、スパルタ王のメネラオスの妻ときたからには、その顛末は想像に難くないでしょう。妻を横取りしてトロイアに逃げていったパリス君を骨の髄までしゃぶりつくしたいメネラオスは兄に懇願し、ギリシア総出でトロイアに責めることにしました。ちなみにアガメムノンは弟想いという表向きがありつつも、トロイアを攻めて権力拡大を目論んでいたとされ、ちょうどいいタイミングで大義名分ができたため喜んでギリシア軍をまとめ上げて総大将となり、トロイアに侵攻していくのでした。ところで、ギリシアという国は、今の主権国家のような一つの大きな国家というのではなく、ギリシアという地域にいろんな国がバラバラに点在していた状況でした。それをまとめあげたアガメムノンは大したものですが、アガメムノンもトロイア攻めのために各地から英雄を募ります。アキレウスもその一人でした。彼はギリシア軍きっての知将オデュッセウスに勧誘され、親友のパトロクロスと共に戦争に引きずり出されていきます。そんなこんなで戦争が始まり、開戦から十年たったところで、事件が起きます。戦利品としてトロイアから奪ってアガメムノンの妾となっていたクリュセイスという女の父親クリュセスが、どうか娘を返してくれとお願いしにやってきます。当然、アガメムノンはうるさい黙れと一蹴しますが、諦めきれないクリュセスは神アポロンになんとかして下さいとお願いします。アポロンはトロイア側に立っていたため、ギリシア軍勢に疫病をばら撒きました。これを見たアキレウスは、アガメムノンにクリュセイスを返してやれと言って彼女はトロイア側に返還されることになりました。しかしせっかくの戦利品を敵に返させたアキレウスに対してアガメムノンは発狂しました。そしてアガメムノンは、アキレウスの戦利品で愛妾のブリュセイスを奪い取りました。このアガメムノンの横暴に対し、アキレウスが逆ギレします。そしてここから、『イリアス』の第一歌が幕を開けるのです。
さて、昔話的な語り口でざっと解説してきたが、ここで僕が一番強調したいポイントは、人間同士の、国と国との戦争のきっかけは、元をたどれば神々による見栄の張り合いだった、ということだ。そしておそらく、パリス(アレクサンドロス)が三美神の誰を選んでいても、結局は何かしらの戦争が勃発していただろうし、その結果、もしヘラかアテナを彼が選んでいたら、きっと彼は人類の王として、あるいは歴戦の英雄として歴史に名を刻んでいたかもしれない。そして皆さんもうお察しがついているであろう、他国の妻を横取りしていった弱小プレイボーイのパリスとトロイアの運命は、『イリアス』本編の解説で明らかにしていこう。
ということで、次回は『イリアス』の第一歌から第十二歌までを紹介する。もう既に面白いと思っていただいた方々は、乞うご期待。

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