「食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。」(ショウペンハウエル『読書について』)
どうも、ちせいです。
たくさん本を読む人のことに対して憧れたり、尊敬の念を抱いたりしている人は多いのではないだろうか。はっきり言って、実際僕もそのうちの一人だ。僕は読書が趣味だが、読書が得意か、と言われると、多分不得意な方だ。まあ、何をもって得意か不得意かということも人によって異なるのだろうけれど、僕の場合、速読はできるけど内容を把握するのは苦手、という感じだ。そもそも、ADHDを持っている僕にとって、本をゆっくり熟読するということはとにかく苦手なのだ。とりあえず素早くざっと読む。それを同じ本で何回も繰り返せばいい、そういう風に考えているような人間だ。そしていつも結局、一回通読し終わった頃には、その本の内容すらほとんど覚えていない、という塩梅だ。だから僕は本を読み終わる度に、自分はポンコツだな、と自嘲していた。おまけに、僕は本を読んでいる最中でさえ、目では文章を追いながら、頭では全く別のことを考えていることがよくある。そうなったら一度本を閉じて頭の方に集中すればいいものを、気が付けば僕は数ページ、目だけが文章を追い続けてめくっていて、その間の内容は空白なのだ。僕は本を読むたびに、そんな自分に対して嫌悪感を抱いているのだ。
テレビでニュースとか歴史番組とかを見ていると、よくコメンテーターやゲストに、年間で300冊以上の本を読む、と紹介される人が出てくる。僕なんて、どんなに頑張っても年間100冊が臨界点だろう。通勤電車の中で本を読んでいる人を見るたびに、それだけの集中力を持っている人がうらやましいと思う。もちろん、僕も長時間電車に乗るときに車内で本を読むことはある。でも気が付けば、景色や車内に掲示されている広告物を眺めていたりする。だから僕は、日が落ちて暗くなった静かな自分の部屋で、読書灯だけをつけて本しか目に入らない状況でしか、うまく本を読むことができない。それが昔からコンプレックスだったし、僕が1冊読み終えるまでに、読書が得意な人は3冊も4冊も読んでいるんだな、なんて考えて劣等感に満たされる。
そして、そんな僕の根底にあった考えが、本を読みたい、という欲望ではなく、本を読まなければならない、という義務感だった。そしてつまるところ、僕は賢い人間になりたかったのだ。僕は大学生くらいの頃から、容姿を褒められることに嬉しさを感じなくなった。代わりに自分の頭脳を褒めてもらえることに、この上ない快感を覚えていた。そしてその褒められる頭脳のために必要と考えていたことが、博識である、ということだった。人は誰しも、知識が多ければ多いほどその人を賢いと思う傾向にある。だから僕は、少しでも多くの本を読んで、より正確な知識をできるだけ多く吸収するように努めた。おかげで大学時代の成績は悪くなかったが、その見返りに、僕は義務としての読書に精神を拘束されることになっていった。
大学のお勉強には、もちろん一冊でも多く自分の研究対象の本を読むことが良い事であることは間違いない。ただ、単に知識が豊富になったからと言って、良い論文が書けるかというと、それは少し違うと思う。本のカタログとか百科事典を作りたい人にとってはそれが一番有効だろうが、論文というのは、研究というのは、既存の状況や研究、知識を踏まえて、これからその分野の発展のために、現状の課題を分析したり、それを踏まえてよりよく発展させるためには何ができるか、それを考えるのが学術的研究だ。だから、たとえ年間で300冊の本を読む人間でも、100冊しか読めない人間よりもいいアイデアを生み出せなければ、学術的な成果を生み出したい人間にとっては致命的な弱点だ、と僕は思う。
少し話が逸れてしまったが、そもそも僕は大学生になるまで本なんてまともに読んだことがなかったし、だから僕は小説よりも先に学術書を読むことから始まった。だから僕が久留米大学の三年生くらいまでは、小説を軽蔑していたし敬遠していた。文学の価値なんて、当時の僕には1ミリも理解できなかったのだ。だから僕は政治学の本や哲学の本などを読み漁ったし、そして1冊でも多く本を読むことに努めたがゆえに、僕にとって常に読書は娯楽ではなく義務であった。そして気づけば、僕はいったい何のために本なんか読んでいるのだろう、と自問自答する始末であった。
僕のような経験をしたことのある人はかなり稀だろうが、それでもやっぱりたくさん本を読める人に対する憧れや尊敬は誰しも一度は感じたことがあるだろう。そして実際、書店とか古本屋で本を手に取ってみて、パラパラとページを捲って買ってみて、読んでみて、最後まで読了することができずに自分はダメだ、やっぱり自分に読書なんて、敷居が高すぎて無理だったんだ、自分には向いていないんだ、そういう風に考えてしまう方も多いのではないだろうか。
そんな方々に、僕は言いたい。書店や古本屋に行って、自分で本を買ってみて、読んだか読んでいないかはともかく、今でもその本が手元にあるということは、とても素晴らしいことだし、貴いことだ、と。
そして、読書は好きだけど文章を読むことが苦手で、読んでもうまく読めた気がしない、読めるけどものすごく時間がかかって、年間50冊も読めないという方々にも、僕はこう言いたい。あなたの読書法は間違ってなんかいないし、むしろそれが読書の方法としては正しい方向に通じている、と。
とっても長い前置き担ってしまって申し訳ないが、ここからが本題だ。しかも本題は、これまでの長い前置きほど長くなく、とってもシンプルだ。

ショウペンハウエルという18世紀から19世紀に生きたドイツの哲学者は、『読書について』という本を書いた。それは、そのタイトルからわれわれが想像しうるような内容とはむしろ真逆の内容だ。
ショウペンハウエルが『読書について』で読者に一番伝えたがっているのは、本を読み過ぎるな、多読はむしろ愚者への第一歩だ、といういうことだ。もちろん、これだけ言えば誤解を招くに違い無いから、本人の言葉を引用しながら説明していこう。ちなみに引用は、すべて岩波文庫版、斎藤忍随による訳から行う。
ショウペンハウエルはまず、読書というものは、単に他人の考えた跡をなぞるようなものだ、という。彼の言葉を借りれば、「読書とは、他人にものを考えてもらうことである。」ということだ。だから本を読む限り、「実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない」のであり、こう続ける。
ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の現状である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けていれば、精神的廃疾者となるからである。
ここでショウペンハウエルが言いたいのは、多読が悪い、というよりは、多読することによって自分の頭では物事を考えられなくなってしまった人間が悪い、と言っているのだ。習字の見本の上をどれだけたくさんなぞったとしても、見本なしに自分で書くことができなければ何の意味もない、そういうことだ。そして、知識とは普遍的なものであり、他人の考えというものは既存のものであるから、本を読めば読むほど、それらが蓄積されて、自分のものでもないようなものをあたかも自分がオリジナルだと思い込んでいる読書家を救いようのない愚か者だ、と言っているわけだ。むしろ、知識が少なくても自分の考えることができて、自分の言葉ではっきりと主張できる人間の方が、真の賢者だということだ。
ただ、だからと言って本を読むことを否定するわけでは当然ない。それでもショウペンハウエルは、読むべき本を読み、読むべきでない本は読むな、と主張する。要するに、読書においても無駄を省け、というわけだ。では、ショウペンハウエルにとって読むべき本とは何で、読んではいけない本とは何か。ショウペンハウエルは、こういう。
……つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがある。
要するに何が言いたいのだ、とツッコミたくなるが、この良書というのは、簡単に言えば古典のことだ。具体的には、古代ギリシアや古代ギリシアの悲喜劇や叙事詩をはじめとして、ダンテとかボッカチオとかシェイクスピアとか、現代においてはゲーテとかフローベールとかドストエフスキーとかみたいな、広く文学的価値が認められているようなものだけに絞って読め、と言っている。
同じようなことを、村上春樹が『ノルウェイの森』に出てくる東大生の永沢さんに言わせている。彼は「死後三十年を経ていない作家の本を原則として手に取ろうとはしなかった。」その理由をこう述べる。
「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い。」
僕は小説を読む場合、原則的に今生きている作家の本を読まない。そして今生きている日本人作家の本で唯一僕が読むのが村上春樹の作品だ。こういうことを書ける人間は、読書の何たるかをよくわかっているし、だからそういう人の生み出す作品は信用できる、という理由だけだ。本人には誤っても誤り切れないくらいの上からな物言いをどうかお許し願いたい。いずれにしても、僕は本当にそう思っているからだ。
最後にもう一つだけ、ショウペンハウエルの言葉を引用して締めくくろう。
「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、既に結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象を受けるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。
僕は、あまり多くの本を読まない、否、読めない。ただし、僕は読むべき本の範囲を決めて、一度読んだ本を何回も繰り返し読むようにしている。上述の通り、僕は一回で熟読するのがものすごく苦手だ。だから自分の中に読んだ本の内容を落とし込むためには、数をこなすしかないのだ。少し脱線するが、僕は久留米大学の三年生の時に、E・H・カーという国際政治学者が書いた『危機の二十年』という本と出合った。それから僕は久留米大生の二年間と、慶應義塾大生の四年間でカーを自分の研究テーマとした。その6年の間に、僕は『危機の二十年』を覚えているだけでも8回通読した。章によっては最大で13回読んだところもある。そして読むたびに、当然理解は深まるし、新しい発見があって面白かったし、最初に読んだ時とはまるで違った印象を受けたところもある。『危機の二十年』はまた別の機会で紹介するとして、結局、ショウペンハウエルが言いたいことをまとめると、こういうことになるだろう。
読むべき本を古典に絞れ。そしてそれを何回も繰り返し読め。そして読むたびに、読んだ本について、時間をかけて自分であれこれ考えたり感じたりしろ。それによってあなたの中で芽生えた考えや感情が、あなたをあなたらしくするし、それができた時、あなたは本物の賢者になる。
たくさん読めなくていい。一冊読み終わるのに一カ月かかったっていい。でもその代わり、一冊を二回は読むこと。そしてその内容をじっくり振り返って、余韻に浸る時間を作ること。そして、自分なりの感想や意見を持つこと。それが、人生を豊かにし、あなたを本当の意味で啓発させるための読書術なのだ。


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